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レビュー・劇評
劇評 / SPAC『弱法師』再演
SPAC 秋のシーズン2025-2026
『弱法師』
観劇日 2025年10月4日、10月18日
柚木康裕
レクイエムとしての母性
三島由紀夫の戯曲は、一言一句、変更してはならないとされている。確かにこの稀代の作家の言葉はあまりに美しく、手を加える必要などないのかもしれない。それゆえに、演出家はその言葉を前提として舞台を立ち上げることになるが、そのとき言葉への批評的まなざしが不足することもあるのではないだろうか。あるいは、演出家は作家と同化しようとするあまり、理解すること自体を目的化してしまうのかもしれない。「私は三島を理解している」といった宣言のように世に差し出される舞台。だが、その確信の強さによって、見落とされてしまうものはないだろうか。
SPAC版『弱法師』の演出家・石神夏希もまた、この「原文不改」の原則を守りつつ演出を行った。テキスト自体に手を加えることはなかったが、彼女は三島の言葉を無条件に受け入れたわけではない。大仰なセリフの調子に違和感を覚え、「理解することが難しい」と語っていた。この違和感こそが演出の出発点であったのだろう。確かに石神はセリフを変えてはいないが、戯曲には書かれていない行為を最後に付け加えた。戯曲の結末では、主人公である盲目の青年・俊徳がぽつねんと部屋に残されて終わる。だが石神は、調停委員の桜間級子が彼を部屋の外へ連れ出すという行為を加えたのである。本稿は、この演出の意図を探る試みである。
山本実幸演じる級子は、俊徳の独白にあきらかに動揺し、怯え、苦しんでいた。それは共感では足りないほど、いわば同化と呼ぶべき反応だった。俊徳の痛みがそのまま級子の痛みとして響いていた。まるで、あの炎の中に彼女自身もいたかのように。なぜそれほどまでに共振できたのか。それは級子が、その痛みを「本当に体験していた」からではないか。どういうことだろうか。
その手がかりは、前半のパートにある。ネタバレになってしまうが、簡単にこの舞台の構造を伝える。この作品は、基本的に同じ物語が二度繰り返される。ただし、俊徳と級子の配役が前半と後半で入れ替わるという仕掛けがある。前半では俊徳を山本実幸、級子を八木光太郎が演じ、後半ではこれが反転する。
前半パートでは、俊徳を演じた山本が脚立の上で熱演をふるい、言葉は邪魔だと言いながらも饒舌に空襲の夜を語る。どれほど熱弁をふるっても、誰も理解する者はいない。そして俊徳の最後の台詞「…どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」という言葉だけが宙を漂う。三島の『弱法師』はここで終わるが、あらすじで触れた通り、石神の『弱法師』はここから驚くべき転回を迎える。
独白を終え、徒労の中に佇む俊徳を演じていた山本が、ジャケットを脱ぎ、髪を整えると、級子を演じ始める。呆気にとられる観客を尻目に、舞台はほぼ初めからもう一度始まるのだ。こう考えられないだろうか。山本の級子があれほどまでに俊徳の独白に共振していたのは、彼女自身がその体験を生きていたからだと。
それを示唆する場面がある。山本の級子が俊徳の身ぶりとシンクロする瞬間だ。俊徳が親たちをうとましげに手で払うと、脚立の上の級子も同じように手を払う。ふたりの身体は鏡のように重なり合う。そこにあるのは模倣ではなく、同体化である。
前半の級子とはまるで異なる存在がそこにいる。八木の級子にはまだ客観性があり、共振するようなそぶりはなかった。しかし後半の級子は、すでに「俊徳を経験した者」として現れている。彼女はひとつの痛みとしてそこに在る。そのような痛みの持ち方を可能にする構えがあるとすれば、それは「母性」と呼ばれるものではないだろうか。
後半の級子には、いわば「母性的知覚」が備わっていた。母と子が未分化な状態で、痛みがひとつとなって経験される。ゆえに母は、救いとして自らの身を差し出すことができる。痛みを引き受け、祈る。そのとき、そこに救いがあるかどうかを問うことはない。ただ、祈る。それが母性のあり方である。
この母性について考えるとき、私は現代美術家・内藤礼を想起する。瀬戸内海・豊島にある建築と一体化した作品《母型(Matrix)》を思い出す人も多いだろう。彼女の代表作のひとつ《Being Called》(1997)は、殉教した修道士たちが描かれた中世の宗教壁画をもとに、彼らの魂が安らぐよう、ひとりひとりに枕をつくり展示したインスタレーションである。死者の痛みと祈りを、自らの身体を通して引き受けるような作品だ。
絵画の人物たちが安らかに眠れるように枕をつくる。側から見れば、それが何になるのかと訝しむ者もいるだろう。しかし、一見無意味に見える行為を、それでも行わずにはいられないところに、母性の本質があるのではないか。ここに、俊徳を救おうとする級子の姿と、三島を救おうとする石神の姿が重なって見える。
三島はそのカリスマゆえに、これまで神格化されてきた。その戯曲を演出することは、演出家にとってひとつの“ステータス”でもある。だからこそ、多くの演出家は三島の言葉を受け入れ、ひとつには美青年の俊徳や妖艶な川島夫人を魅せる舞台として上演してきた。だが、最後に舞台に残されるのは必ず俊徳であり、その孤独は「誰からも愛される」三島自身の姿に重ならないだろうか。高安の生みの親も、川島の育ての親も、「私は俊徳を理解している」と言いながら、彼の痛みを本当に感じてはいない。彼女らの「母性」は所有の理論に基づいており、「理解する」とは彼を独占することにすぎない。
これまでの多くの演出家もまた、同じように見える。「私は三島を理解している」という確信のもとに演出を進め、結果として俊徳をステージ上にひとり取り残してきたのだ。上演のたびに、ぽつねんと舞台の上に佇む俊徳/三島。その口からこぼれる「僕ってね……どうしてだか、誰からも愛されるんだよ」という言葉は、繰り返される上演のたびに、より深い淵へと沈んでいっただろう。
では、石神はどうだったのか。彼女は三島を無条件に受け入れず、むしろ違和感から出発した。そして、舞台にひとり残された俊徳/三島を救うにはどうしたらよいかを問い続けたのではないか。彼を舞台の中に閉じ込めるのではなく、解放する方向へと創作を進めなければいけなかった。それゆえに石神は困難のうちに、級子に祈る者を託したのではないだろうか。痛みをひとつのものとして引き受け、祈る者として。
なぜ級子は彼を連れ出したのか。いや、連れ出すことができたのか。その理由はひとえに「母性」の描かれ方にある。私が初演時に書いた劇評で訂正すべきことは、級子をジェンダー的役割として見てしまったことだ。「菩薩か、母か、女か」と問うたあの視線は、いまでは誤りだったとわかる。そうではなく、級子は「母性」そのものを体現していたのだ。そして、「母性」はジェンダー的規範ではない。むしろ、人間が人間を救うという行為の根源にある力である。
この母性を級子が持ちうると確信するためには、物語を二度繰り返すことが必要だったのだ。反復される舞台は、一度目が級子の心の風景であり、二度目はその内面が現実の行為として現れたのだといえる。「いいえ、見ないわ」。俊徳が懇願して求めた言葉を否定した級子。同じ火で焼かれた級子は、それでも否定してみせたのだ。ゆえにそれは救いとなり、劇場に広がっていく。ついに祈る主体となりえた級子は、俊徳を舞台から降ろすことを成したのだ。
このようにして石神は、写真の中で佇む“日本男子”たる三島に、そっと枕をつくってみせたのである。
【引用・参考出典】
上演情報
SPAC-静岡県舞台芸術センター 秋→春のシーズン2025
『弱法師』(作:三島由紀夫/演出:石神夏希)
上演期間:2025年10月4日(土)~10月19日(日)
会場:静岡芸術劇場(静岡市駿河区池田79-4)
*2026年に巡回公演あり
戯曲出典
三島由紀夫『近代能楽集』新潮社、1968年。
参考文献・関連資料
・SPAC劇評コンクール 2022-2023 最優秀賞「□△○の界(さかい)に」柚木康裕(本人)
(SPAC公式サイト掲載) https://spac.or.jp/critique/?p=2246
・内藤礼《母型(Matrix)》豊島美術館、2010年
・内藤礼《Being Called》1997年