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レビュー・劇評
劇評 / 『楢山節考』ふじのくに⇄せかい演劇祭2024
ふじのくに⇄せかい演劇祭2024 参加作品
『楢山節考』
観劇日 2024年4月27日
小田透
肉体的な朗読劇、または意味にはならない親密な身体の交流の異様な存在感
完全な闇のなか、祭りの太鼓のようでもあれば、死者を送る葬送の知らせでもあるかのような「ドン、ドン」という鈍い音が響き渡るなか、楕円の舞台上手からゆっくりと登場するふたりの此岸的身体の彼岸的な存在感を強調するかのように、光が注ぐ。全体的にくすんだ色合いではあるものの、さまざまな色合いの襤褸切れをパッチワークのように縫い付けた半纏は、日本的でありながら、日本的なものに回収されない余剰がある。リアルにはありえなさそうだと思わされるが、もしかしたらありえるのかもという気にもさせられる。
重心が重く低く、揺らぐことのない俳優たちの肉体と、仮想的に民俗的な衣装と、それらを妖しく照らし出す輝かしい光がどこか折り合わないと思っていると、四つん這いになった肉体が動物のように——いや、昆虫のように、と言おうか——、舞台前方まで一気に迫ってくる。そして、人間的でありながら、人間以外の力をも表出させるような肉体を存分に反響させる力強い語りが、舞台を稼働させていく。
深沢七郎による「楢山節考」(1956)は、端的にまとめれば姥捨て物語であり、民話的なものだが、深沢はそこから陳腐な教訓を引き出しはしない。食い扶持を減らすために、共同体の教えを実践するために、嬉々として山に入っていく「おりん」の静謐な美しい死と、往生際悪く生にしがみついて、とうとう無理やり谷底に投げ捨てられる「又やん」の無様な醜い死は、明確な対照をなしてはいるが、前者が称えられ、後者が貶められているわけではない。70歳になった者に死を迫る共同体の倫理は、「そのようなもの」として提示されており、そこには、近代的な個人主義からの批判もなければ、前近代的な価値観——共同体の生存と安寧のために個人は犠牲を甘受する——からの擁護もない。ここにあるのは、冷徹なまでの観察と記述である。
演出家の瀬戸山美咲が手がけた上演台本はきわめて原作に忠実であった。尺の関係だろうか(上演時間は70分弱)、登場人物こそ、みずからの死出を待ち望む「おりん」(森尾舞)、母の準備を見守り、母を背負って山に赴く息子の「辰平」(西尾友樹)、辰平の後妻として、おりんに代わって今後家を切り盛りしていくことになるであろう「玉やん」(浜野まどか)の3人に切り詰められているが、瀬戸山は深沢の「小説」をことさらに「戯曲」に仕立て上げることはせず、むしろ、キャラクターの内面に踏み込みすぎることのない深沢の乾いた筆致の字の文を、方言交じりの生き生きとした会話文と合わせて3人に朗読させることで、そしてそこに、チェロの胴を打楽器のように叩いたり、弦を強くはじいたり、弓で弾いたりと、楽器のポテンシャルを使い尽くす五十嵐あさかの音楽——彼女の奏でる民謡的な旋律は、日本的というより無国籍的で、映画音楽的な描写性を備えていた——をバックボーンとして据えることで、この舞台を肉体的な朗読劇に仕立て上げていた。
ただし、それは、語られる言葉の内容を増幅させるようなかたちで肉体が用いられていたことを意味しない。俳優たちはむしろ、突き放したような深沢の客観的な言葉には不釣り合いなほどの、生々しい身体的親密さを伴わせていた。何度となく、俳優たちは、自身の体を相手に任せるだろう。たとえば、膝枕しているほうが、されているほうに体を傾ける。そのうえに、三人目が折り重なる。しかし、そこで増幅されていくのは、言葉の意味ではないし、登場人物同士の情でもない。きわめて濃密なかたちで、体重を預けるかのように接触するにもかかわらず、そこから、母と子のあいだの、夫婦のあいだの、義母と嫁のあいだの、新しく家族になった3人のあいだの情緒の交換が出現してくるわけではない。親密な肉体的接触でありながら、ただそれだけなのだ。それは、出来事としての生々しい身体の非意味的な交流であり、だからこそ、いっそう異様な存在感を発散させていたのだった。
白骨の胸のなかに巣を作っているカラスたちを描写する深沢の言葉がそのような身体群によって朗読されると、おそろしく真に迫った感じがする。なるほど、それは、言葉だけで情景を鮮やかに出現させる俳優の卓越した技術によるものではあったけれど、同時に、俳優の身体が放出する膨大なエネルギーによって、辰平という虚構の人物がそのときに感じていたのかもしれない、言葉にならない怖れや畏れといった情動が、わたしたちにダイレクトに放出されていたからでもあった。その意味で、この舞台の軸をかたちづくっていたのは、辰平のセリフと地の文を引き受けた西尾友樹にほかならなかった。
玉やん役の浜野まどかは、原作的にも演出的にも、脇役的な存在ではあったけれど、この世にとどまりつづける存在としての確かな此岸性を失うことがなく、死に赴く準備が出来ているからこそ、あっけらかんとしたユーモアをただよわせたり、神々しいまでの静謐さをかもしだしたりする森尾と、生と死の往還を余儀なくされたからこそ、そのあいだで揺れ動き、情動を拡散させてしまう西尾とを、上手く舞台に引き留め続けていたと言えるだろう。
しかし、もっとも圧巻だったのは、森尾舞だ。死に場所にたどり着き、正座して合掌するおりんは、もはや語らぬ存在となる。そのとき、彼女の身体性がもっとも雄弁に語り出した。カラフルな半纏からくすんだ白い半纏に着替えているおりんは、いまや、まだ死んではないとしても、すでに生からは退いている。その中間的な存在性を森尾は、神々しくありながら、同時に、あたかも彼女自身の身体が老婆のように縮んでしまったかのような小さく慎ましい姿によって、この舞台にたしかに出現させていたのである。
[ 筆者プロフィール ]
小田透(おだとおる)
静岡県立大学特任講師。比較文学、批判理論専攻。SPAC劇評コンクール受賞多数。
翻訳『相互扶助論: 進化の一要因 』ピーター・クロポトキン
■ 小田透氏による「ふじのくに⇄せかい演劇祭2024」全6作品の劇評を順次公開しています。
『楢山節考』 /『友達』/ 『かちかち山の台所』 / 『かもめ』 / 『マミ・ワタと大きな瓢箪』 / 『白狐伝』
[ 公演データ ]
ふじのくに⇄せかい演劇祭2024 参加作品
『楢山節考』
公演日時:4月27日(土)16:00、4月28日(日)16:00、4月29日(月・祝)16:00
会場:舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」
上演時間:70分
上演台本・演出:瀬戸山美咲
原作:深沢七郎
制作:SCOT
主催:SPAC-静岡県舞台芸術センター
[ LINK ]
ふじのくに⇄せかい演劇祭 WORLD THEATRE FESTIVAL SHIZUOKA
SPAC-静岡県舞台芸術センター
写真提供:SPAC-静岡県舞台芸術センター