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レビュー・劇評

観劇日記 / 伽藍座長一人芝居の旅『藪の中』

柚木康裕(cocommons)
2024年5月21日

大学生の時から静岡市で40年ほど演劇活動をコンスタントに続けている劇作家、演出家、俳優の佐藤剛史さんの一人芝居を観る。佐藤さんは伽藍博物堂という名義で長く劇団を主宰し公演を重ねてきた。現在は劇団としては活動せずに、プロデュース公演や若手の育成などに注力している。いずれにしても静岡の市民演劇に深く関わってきた方だ。伽藍座長(あるいは単に座長)とは、皆が親しみを込めて彼を呼ぶときの愛称である。

佐藤さんの「一人芝居の旅」は、当日パンフによれば17年間継続しているということ。初めてこのシリーズを観たのがいつだったか覚えていないが、これまでに幾度となく観てきたものとは、随分趣きが違っていた。いつもであれば自らが書き下ろした台本を演じ、ある種の軽さを含んだ演出によって上演していた。例えば社会問題に切り込むにしても笑いを欠かさないように。もちろん多くのコメディがそうであるように、それは本当に大切なことを伝えるための工夫であって、その軽さはまったく軽くはないわけだけど。

そのような作風を持つ佐藤さんが今回の一人芝居で選んだのは自作ではなく芥川龍之介『藪の中』だった。登場人物のダイアログのみで進んでいく物語は、一人芝居として挑戦しがいがあるだろう。ただ本人もその魅力は知りつつも避けてきた作品だという。それは自らの「解釈」に辿り着けなかったと理由を述べていたが、それをいよいよ取り上げるのだから、本人にも思うところがあったのではと推測できる。それはある種の吹っ切れとも呼べるのかもしれない。他人の書いたものの「解釈」の正しさを恐れて、挑戦を踏みとどまるのではなく、(これも当パンに書かれているように)新しい旅に出て、自分の世界を広げたいという創作者としての初期衝動を信じて動くこと。それが今だったのは年齢が関係しているだろうか。ためらう理由はない。奇をてらうこともない。還暦を迎えた佐藤さんが、青年のごとく冒険を続けるために選んだ作品が『藪の中』だということは、ある意味でとても清々しい。

この物語の筋は、ある殺人をめぐる三者三様の独白が続きながら、結局は真相がわからず物語が終わるというもの。誰が犯人なのか、真実は何かをという考察が本作が世に出てから100年に渡り続いていることからも、この作品が時代を超えて共有できる何かを含んでいることが理解できる。だが、その多くの言説が「犯人さがし」に収斂してみえるのは少し残念だ。それぞれが主張する事実を検討して、犯人を探し当てたとして、それが何をもたらすのだろうか。と僕は思う。「事」は起きた。人の数だけ言い分がある。大切なのは犯人を探すことではないはずだ。そこで本当に起きた「事」に目を向ける。僕はそれを知るためにそれらの声に深く耳を傾けたい。

では佐藤さんは『藪の中』で何が起こっていたと判断して上演したのだろうか。演劇の面白さ(残酷さ)は、演出家の解釈が舞台にありありと映し出されること。佐藤さんは『藪の中』をどのように読み、振る舞おうとしたのか。少なくとも、これまでのような軽さを持った「一人芝居」ではなかった。それは扱いたい内容がその軽さでは伝えきれない、あるいは間違って伝わる可能性があるという判断をされたのではないだろうか。では、その内容とはなにか。それは今や特筆したくもないが、日本社会で更なる理解を深める必要があるジェンダーバイアスではないだろうか。

僕は男性であり、既婚者であり、小さいながらも会社の代表取締役という社会的には強者と呼ばれるような部類に属している。そんな人間がバイアスのないジェンダー規範を持っていると言い切るのははばかれるだろう。ただ、それでもそうしたことは男性の立場を自覚しつつ、普段から考えているし、振る舞いにも気をつけているつもりだ。そのようなフラットな視線を意識しつつ、改めて「藪の中」を読んでみると、作者のジャンダー観のあり方にそこはかとない違和感を持ってしまった。わりと男目線の都合の良さがあるなと。もちろん100年前と現代では社会通念も変化しているので、現在の正義に照らし合わせてそれ自体を責めるつもりはない。それに行き過ぎたポリティカルコレクトネスにも辟易している。そうではなく、ジェンダー観の変化があったことを前提にこの内容をどう捉えるか。誰が嘘をつき、誰が犯人なのかを突き詰める劇的なドラマを演出しても、それを伝えることはできないだろう。佐藤さんも犯人探しではなく、このジェンダーバイアスについて言及していく演出を試みたのではないかというのが僕の見立てだ。演劇は道徳を示す装置ではないはずで、教条的である必要もない。そのような使い方をする演劇にはほとんど興味は持てない。もし教訓でも垂れるような演出だとしたら、それこそ家父長的な振る舞いによってバイアスを強化してしまうのではないだろうか。しかし、もちろん佐藤さんはそのような態度を取らなかった。では、作品発表から100年経て現代の男性演出家はどう物語ったのだろうか。

この物語は、殺人事件に関係している者たちの独白が展開していくのだが、その順番に作者の意図をみるのが一般的な解釈だろう。大抵このような場合は、関係の薄い順番に登場するが、この話も例にもれない。ただ非常に意図的だと感じるのは、殺された夫の語りが最後だということ。もちろん死人に口なしなので、憑依した巫女に語らせることになる。この夫の言葉は、かなり偏見に満ちたものに感じられる。というのも妻をレイプした犯人にシンパシーを持ってしまうのだ。夫は妻と盗人のやりとりから、あろうことか妻の美しさを見出し、それに嫉妬する。そして、盗人の語りに同意してしまう。

「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷ずけば好よい。殺すか?」――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦ゆるしてやりたい。

盗人の罪とは、何だろうか。それは「強姦」であることは間違いない。この物語の奇妙なところは恣意的ともいえるが殺人者は誰かという興味へ向かわせるようにしているところだ。しかし、この物語の中で唯一の事実として揺るぎない犯罪は彼女が犯されたことであろう。この罪については特に言及されずに物語は進むが、それこそがもっとも問われなければならない事実ではないだろうか。この物語が常に男のエゴに満ちていて、女の現実を捉えていないと思えるのはそのためだ。もっとも語らなければならないことが背景に追いやられてしまう。

この物語で背景化してしまう女の現実を捉えようという試みが佐藤さんの『藪の中』だったのではないだろうか。その試みが各人の証言をいくつかのセンテンスに分割し、順番を何度も入れ替えながら、交錯的に証言者に語らせるという演出だったのではないだろうか。これにより、今、誰が証言しているのか曖昧にさせながら、妻の声が男たちに割って入りたびたび蘇る。そして、決定的なのは妻の語りで幕が閉じることだろう。けっして夫の意味ありげなセリフで終わらせない。最後は妻のすすり泣きで終わるのである。

しかし夫を殺したわたしは、盗人ぬすびとの手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好よいのでしょう? 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しきすすりなき)

佐藤さんは、「薮の中」にあるものは、家父長的男性的価値観であると伝えているのではないだろうか。犯人探しの中で見失ってしまったものは、女性の人権だったのではないだろうか。芥川龍之介が生きた時代と現代を比較してもそれほど変わってないのかもしれない。とくに日本のジェンダー格差は先進国の中ではダントツに低い結果が報告されている。その事実に対しての意見ではないにせよ、佐藤さんの問題意識として現れているのではないだろうか。

[ 観劇データ ]
観劇日時:2024年4月13日(土)
伽藍座長一人芝居の旅『藪の中』
作:芥川龍之介
演出:佐藤剛史
演出助手・音響:長谷川はづき
照明:加藤えつこ

[ 参考文献 ]
青空文庫「藪の中」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/179_15255.html

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