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レビュー・劇評

観劇日記 / 伽藍博物堂『紙風船』

柚木康裕(cocommons)
2024年5月30日

2500年前のギリシャ悲劇や400年前のシェイクスピアなど多くの戯曲が現代まで何度も上演されている。今回観劇した『紙風船』は100年前の日本の戯曲だ。21世紀の今でもこのような古典作品が繰り返し上演されるのは、洋の東西を問わずに、人間の変わらなさを示しているのだろう。科学的な進歩に比べて、人間の「心」はほとんど変わらずに、いつの時代も何かに悩み迷っているということか。しかし、もちろんその長い歴史の中で人間はより人間らしく生きることを求め続けてきた。「個人」が発見され、それに伴い人権という考えが社会に定着していく。人類は確実に進歩している。ただその人がその人らしく生きる世の中になったのかといえば、今もまだ道半ばである。

戯曲「紙風船」は、1925年に岸田國士によって発表された。倦怠期と呼ぶにはまだ早そうな若い夫婦の会話劇で、非常に上演回数の多い岸田の代表作だ。この年は普通選挙法が公布された年として歴史に記されている。しかし、「普通」の内実は25歳以上の男子だけに与えられた選挙権を指す。つまり当時の女性はその「普通」から除外されていたということになる。そのような男女の社会における非対称性があからさまな時代にこの戯曲は書かれた。

伽藍博物堂『紙風船』は、主宰の佐藤剛史が演出をしつつ夫として出演。妻役は東京を拠点にプロの声優として活躍する一木千洋。この二人の年の差は、30歳ほどだと思われる。夫婦と呼んでいいのか躊躇われるようなキャスティングだが、ここには理由がある。佐藤は小学生から大学生まで多くの若者の演劇指導を長く続けている。一木もその教え子のひとりだ。彼ら彼女らはそれぞれに学校を卒業し巣立って行くのだが、師弟関係とも呼べる縁は続くのだろう。一木がSNSで朗読劇に興味があるという旨の発言をたまたま佐藤が見たことで、声をかけて企画が立ち上がったということだ。そして選んだ作品が「紙風船」。その理由はいくつかある。二人芝居であること、一木はプロの声優を生業とするが演劇経験の少ないこと、そして佐藤が以前にもこの作品を上演しているので創作期間をコンパクトにできることなどがあげられる。それらの理由とともに、出演者の上演の負担を極力減らしながら、実り多い経験を積ませたいという指導者としての配慮からこの岸田作品を選んでいることも確かだろう。それにしても、この年の差で夫婦役は成立するのかと心配になるが、それが成立してしまうのが演劇の面白いところ。もちろん演出の力がそこには必要になる。そして、確かにこの舞台はその力を感じることができた。ただそれだけでなく、それはこのキャスティングによって、岸田戯曲に潜む思いもよらぬ魅力も引き出していたとも思う。

なぜ私がこの年の差を気にしていたのかと言えば、岸田戯曲がリアリティ演劇を志向しているからと考えていたからだ。現代ではすっかり古典となった岸田作品は、役者にとってリアルな演技を学ぶための良き教材ではなかろうか。だが、上演直前におこなった佐藤自身の前説により私の考えが思い込みに過ぎないことが判明した。佐藤がここで語ったのは、「紙風船」発表後10年経った文芸誌での岸田の文章[1]だった。岸田によればこの戯曲を書いた時代のリアリティ演劇とは、「新劇」であった。彼はこの戯曲が「新劇」から批判されたと伝えている。彼自身も自覚はあり、自らこの作品をファンタジーと述べている。なるほど西洋人の真似をして格言が飛び交う舞台をリアルと呼ぶならば、日曜日の午後のごく平凡な庶民である夫婦のさもない会話が交わされる舞台はまさにファンタジーなのかもしれない。だとしたら、非現実的な歳の差婚のこのキャスティングは、岸田戯曲を演じるのに悪くない組み合わせに見えてくる。

ただし、佐藤の演出設定としては夫と妻の年は離れていない。私にはそのように見えたと断りを入れて先に話を進める。歳を重ねた男と溌剌とした若い女という表象は興味深い効果を舞台に生み出していく。100年前は選挙権もなかった女性たちは、自らの権利を勝ち取るために奮闘を続けてきた。しかし、それは法的に勝ち取るだけでは足りず、「常識」のような社会通念との戦いこそが本当に打ち破らなければならないことだった。「女」というだけで差別に常に晒されてきたのだ。それでもそれらの戦いは一定の身を結び、現代では女性の社会進出も進み、仕事を持つことは何ら特別ではない。特に一木のような若い世代では、男女の平等意識は高まっているように感じる。

戯曲の中の女性は編み物をしながら夫と会話をしている。それは専業主婦の暗喩であろう。家庭で夫に仕える妻というステレオタイプがここでは表されている。だが、佐藤は妻役の一木に編み物ではなく日記という設定で台本を持たせた。佐藤がこの演出を選んだのは現実的な理由が大きかったのだと考えられる。企画当初この舞台は朗読劇として上演する予定だったことからもそれは推測できるが、創作時間が限られている中でセリフを暗記する負担を軽減するための配慮があったのではなかろうか。もっともどのような理由にせよ、この演出によって一木が声優であることが強調され、非常に興味深いメッセージが浮上してきたと感じられた。

声優の一木にとって台本とは明らかに仕事道具である。100年前の女性は、日曜日に編み物をして過ごすことしか出来なかったが、現代の女性は明日からの仕事の為に台本を読み込んでいるのだとこの舞台を眼差すことができるだろう。だとすると台本から目を離さずに夫と会話するその姿も頷ける。それは決して夫への愛情を失っているからではない。女性も仕事を持っているという事実が端的に示されているのだ。時に佐藤の目を見て話す一木の表情を見れば明らかではないか。夫を真っ直ぐに見つめるその瞳は生命感に溢れ、はっきりと信頼を伝えている。ここには極めて現代的な女性像を認めることができるのではないだろうか。支えられることに甘んじる女性ではなく、対等に生きている女性として一木が演じる妻は在る。いや、今やうじうじとはっきりしない夫(佐藤)をよそに、妻(一木)の姿は未来を照らし出すような存在ですらある。

想像が過ぎるだろうか。だがもう少し続けてみよう。佐藤は、妻がすでに他界しているという演出を行った。夫が二人で過ごした在りし日を忍んでいるという設定だ。故に自殺を計ろうとするシーンを挿入した。しかし、この場面の効果は妻への愛情/未練よりも男自身の不甲斐なさを際立たせてしまうことにならないだろうか。100年経っても変わらない男のヘタレ具合を暴いてしまっている点ではリアルなのかもしれないが蛇足のような気もする。もしこのシーンを演出するのならこのような提案はいかがだろうか。実は他界していたのは夫だったという設定だ。妻は余生を女友達と過ごして楽しく日々を暮らしている。ゆえに一木の顔には艶があるのだ。時に夫を思い出すのは愛情でもあるが、それは自らが頑張ってきた事実の確認だ。この日もそんな日だった。最後に紙風船が座敷に飛んできて、庭に出ていく。若々しい明るい声で子供に応答しながら。

伽藍博物堂『紙風船』は、岸田戯曲に内在するユーモア性を示したことで、私にとって新しい岸田戯曲の魅力を発見する機会となった。

※ 2024年8月19日にテキストを一部修正しました。

[ 観劇データ ]
観劇日時:2024年5月17日 19:30
伽藍博物堂公演『紙風船』
作:岸田國士
演出:佐藤剛史
出演:佐藤剛史、一木千洋
演出助手:長谷川はづき
場所:ギャラリー青い麦

注 [1] 『紙風船』について 岸田國士
https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44533_36719.html

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