Interview / SPAC俳優・杉山賢

6月中旬、次の出演作への稽古が始まる頃に、SPAC俳優・杉山賢さんにインタビューを行いました。
きっかけは、SPAC×The Necessary Stage『マライの虎』です。杉山さんは、日本軍に協力するシンガポール人を描いた劇中劇で、日本人将校・谷豊を演じていました。その演技はもちろんのこと、作品そのものも歴史や演劇の構造を巧みに織り込んだ見事なもので、多くのことを尋ねてみたいと思ったのです。
さらに、杉山さんは間もなく再演される『ハムレット』にも出演します。前回の上演では、私自身も多くの示唆を受け、その感想を書こうとしながら、結局まとまらないまま再演を迎えることになりました。
『マライの虎』と『ハムレット』。一見異なる二つの作品ですが、両作品に出演する杉山さんと対話を重ねることによって、「翻訳」「歴史」「演じること」というテーマが共通項として浮かび上がってきました。それにより作品を超えて、演劇をより深く理解することに繋がっていくようでした。
本稿は、その対話の記録です。
第一章 「To be or not to be」は何を意味するのか
To be, or not to be: that is the question.
シェイクスピア『ハムレット』の中でも、おそらく世界で最も有名な一節でしょう。
日本では長らく、「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」と訳され、多くの人がハムレットを「生と死のあいだで苦悩する青年」として受け止めてきました。
私も当然のように、その台詞を受け入れてきました。しかし、SPAC『ハムレット』の再演を前に関連書を読み返すうちに、この一節そのものを改めて考え直すことになりました。
ココモンズ:『ハムレット』の再演が決まりました。まず俳優として聞いてみたいのですが、あの有名な “To be or not to be” は、どう受け止めていますか。
杉山:決まった答えはないように思います。本当に人によるのではないでしょうか。俳優の間でも、この台詞に「正解」があるとは思っていません。私も原文を辞書で引きながら読むことがありますが、“To be” をそのまま「生きる」と訳してしまうことには、どこか違和感がありますね。というのも、そのあとには “To die, to sleep…” と、「死ぬこと」が別に続いていくんです。だから “To be” 自体を「生きるか、死ぬか」と読んでしまうと、少し意味が重なってしまうように感じます。
ココ:なるほど。
実は、僕も最近、そのことを考えていました。『ハムレット』について調べ直していたときに、石井美樹子さんの著書「真訳 シェイクスピア四大悲劇」に出会ったのです。石井さんは、イギリス中世史の研究者であって、シェイクスピアの時代の世相に精通している方です。そこでは “To be or not to be” が、「生きるべきか、死ぬべきか」ではなく、「存在するか、しないかーーそこが肝心だ」と訳されていました。僕自身、この訳にはとても腑に落ちました。もちろん、「生きるべきか、死ぬべきか」という訳は長く読み継がれてきた言葉ですから、簡単に置き換えられるものではありません。でも、石井さんの解説を読んでいると、その訳には十分な根拠があることが分かるんです。

杉山:ほんとに難しいところですよね。こう、日本語にする難しさというか。
ココ:『ハムレット』には、三つの異なる版があるそうですね。
石井さんは、それぞれの版を比較しながら本文を読み解き、さらにエリザベス朝の政治や宗教、劇場文化まで踏まえて翻訳しています。それは翻訳家として当然ではあると思うのですが、石井さんはとても厳格な印象です。その象徴としてオックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー(OED)があります。この辞書はシェイクスピアから32,000以上の語彙を引用しているらしいのですが、これを参照するのが欠かせないと伝えています。石井さんはこう述べています。
「芝居には、その時代に生きた人びとの姿、社会が映されている。シェイクスピアの誕生から400年余り。これほどの時の厚みを超えて、シェイクスピアの作品に近づくためには、OEDを参照しなければならない」
また聖書がシェイクスピアの大切な原典とも述べていて、その造詣の深さも欠かせないものだと理解できます。つまり、「存在するか、しないか」という訳は、単なる新しい解釈ではなく、作品そのものに立ち返って考えた結果といえるんですよね。それと改めて考えたことが翻訳と解釈の関係ですね。
杉山:「存在する」という読みには、私も共感できます。ただ、「生きるか死ぬか」を期待しちゃう部分はありますよね。“To be or not to be”を日本語に訳すのは、答えができないですね、ほんとに。以前スコットランドに行ったとき、現地の舞台人と『ハムレット』の話になって、「“To be or not to be” を日本語ではどう訳すの?」と聞かれたんです。だから、「生きるべきか、死ぬべきか」のような感じだよ、と伝えたら、
「長い!」
って言われて(笑)。
確かに、訳の問題以前に、日本語にするとリズムそのものが変わってしまうんですよね。
ココ:うん、確かに。そもそもリズムが違うからね。
改めて翻訳の難しさを考えたんだけれど、今回の演出とも重なるように思ったんですよ。というのも、SPAC版ではホレイシオが「私こそが正当な語り手だ」と何度も強調しますよね。でも、そのホレイシオ自身が、「オフィーリアは物語に必要ない」と言ってしまう。つまり、彼自身の解釈で物語を語っているんですよね。
それでも、私たちはその言葉を「正しい」と受け入れてしまう。あるいは、受け入れようとしてしまう。
それは、ホレイシオを「正当な語り部」として、私たちが最初から信頼しているからなんですよね。でも、本当は、その言葉自体が正しいのかどうかを問い直さなければいけない。そして、もっと厄介なのは、ホレイシオ本人には悪気がないことなんだと思います。
そして、実は「正当な語り部」というのは、舞台上の俳優にも言えることなのですよね。とても興味深いです。
次章に続きます。
アップまでしばらくお待ちください。

聞き手:柚木康裕(ココモンズ)
インタビュー日:2026年6月11日
場所:COSAフードコート(静岡市)