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review / 明滅する世界の狭間で ー『三人の盗賊』

美音子
2022年9月12日

 人宿町やどりぎ座の4周年を祝う周年祭が開幕した。5作品が一堂に会するこの催しの最初を飾るのは、八木柊一郎のデビュー作である『三人の盗賊』(1955)である。2周年記念作品の再演であり、演出は前回に続いて黒澤世莉が務める。個人的に再演を願っていた作品であり、どのように初演をアップデートしてくるのか、その違いをみつけるのも楽しみのひとつであった。

 物語の舞台はとある田舎の別荘。父からの金だけを頼りに、互いが互いの面倒を見ていると信じ込む三人姉妹のもとへ、三人の盗賊が忍び込む。姉妹は、盗賊たちはそれぞれが演じる芝居の相手役としてやってきた村人だと互いを思い込ませようとする。盗賊たちもそれに乗っかり一晩を越そうとするが、そのうちに三人と三人は結婚することになってしまった。狂気に飲まれながらもなんとか生きようともがく三人姉妹と、それぞれの思惑と姉妹の間で揺れる盗賊たち。夜が明け、家を荒らしはじめる盗賊たちと姉妹が衝突する中、一台の車が到着する。それは三女のレイ子が姉二人を入院させるために呼んだ病院の迎えだった。姉たちは連れていかれ、財産も全てを盗まれたレイ子は、最後に残ったたったひとつの風船をそっと手放し、幕が閉じる。

 まずは舞台美術の素晴らしさに目を向けなくてはならない。キリスト役の鈴木美嘉が手がけたそれは、シンメトリーでないのに、絶妙なバランスで成立している。まるで絵画が突如彫刻のように立体になったかのような手触りがある。しかしそれゆえに、視覚と現実と乖離があるような感覚も持たされる。つまり、ありえそうでありえなそうな、けれどありえそうな、というギリギリのラインの上に真っ直ぐに乗っているのだ。ひとつひとつが丁寧に選定された小道具と、遊び心が満載の仕掛けに観客の集中と弛緩は見事にコントロールされ、より一層物語世界へと没入することができる。

 また、初演の印象はどちらかといえばサスペンスに近かった。しかし今回は完全にコメディーに振り切っている。そのような印象の変化を可能にしているのは、この物語の本質が、コメディーというよりは概念の話であるからだ。

 この戯曲の最大のおもしろさは、物語の中に一貫してある「現実」と「狂気」の明滅なのだ。演劇において、狂気というものを存在させるのはさして難しくないことのように思われるかもしれない。しかしこの戯曲ではただ狂気を「使用」するのではなく、それがただそれとして、つまり「純粋な狂気」というものを提示している。そして、それを立ち上げるための装置として台詞があるように思われてならない。そして、さらにこの「狂気」を起点として、原因として、また結果として、何度も何度も、まるで明滅するように狂気がある。狂気が明るみに出れば現実が顔を出し、またそうしたかと思えば狂気が立ち上る。物語に出てくる三人の盗賊と三人の姉妹は、誰が狂っていて誰が正気かということではないのだ。物語の時間が過去から現在、未来に流れていくように、ただ瞬く星のように狂いながら生きていて、そして去っていく。

 初演時はなぜ成立しているのか不思議な戯曲だと終始感じていた。しかし今回の再演で、この六人の「現実」と「狂気」の明滅が、それを可能にしているのだと合点がいった。なぜなら、われわれの生きる「現実」というものも、日々「明滅」し続けているからだ。虚構と真実、愛と憎しみ、絶望と希望、まるで対立しているかのように思われる概念は、じつはわれわれの中に同時に存在している。それをわれわれは本当は知っているはずなのだ。だからこそこの戯曲はたいへん生々しく魅力的だ。それらを演出と俳優たちが見事に立ち上げており、まさに開幕にふさわしい一本となった。

[ 観劇データ ]
人宿町やどりぎ座周年祭~もう4年?まだ4年!~
『三人の盗賊』
作:八木柊一郎
演出:黒澤世莉
会場:人宿町やどりぎ座
観劇日:9月10日(土)19:00

[ プロフィール ]
美音子(みねこ)
1993年生。静岡文化芸術大学芸術文化学科卒。静岡市在住。在野のキュレーター/文筆家。学生時代に現代美術と演劇に傾倒し、「書く」ことのよろこびを知る。身体や音楽、その他どんな表象にも代えられない「ことば」そのものをみつめるために試行錯誤中。時にガムラン奏者。

[ 関連ページ ]
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