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レポート(後編) / 『籠城』上映会 & ディスカッション

SPAC-静岡見舞台芸術センター新作『伊豆の踊子』の応援企画として行ったドキュメンタリー映画『籠城』上映会とディスカッションのレポート後半です。終盤は観客の質問に答えながら対話が深まっていきます。
前半はこちら↓
レポート(前編) / 『籠城』上映会 & ディスカッション

■ 問答 ── 作品は誰に届くのか

小手川:お客さんからのご質問に「音楽はどのようにつくられたのか」というものがありました。映画にはさまざまな音があったと思うのですが、ピアノ曲は久保田翠さんという作曲家の方に編曲・演奏をしていただきました。一高の寮歌を独自の仕方でアレンジしていただいたんです。つまり、映画に使われているピアノ曲はすべて、当時一高で毎年つくられていた寮歌の中から六曲選んで、それを編曲していただき、演奏、録音してもらったというわけです。

多田:毎年つくられていたんですか!

小手川:そうです。たとえば毎年の紀念祭、いわゆる学園祭のようなものですが、その年ごとに新しい寮歌がつくられた。一高生自身が寮歌をつくるという伝統があったんです。

宮城嶋:これまでも『籠城』は、東京大学や東北大学、山形大学、また、小手川さんは今年6月末までロシアに留学されていたのですがサンクトペテルブルグ国立大学やロシアのシネクラブでも上映会がありました。それで、監督のご意向として、映画制作の段階でもそうだったんですが、ただ単に映画をつくって上映するというだけでなくて、制作過程でも上映時でもディスカッションして、その場にいる方に意見を聞きながら、映画を通して考えるということを大事にしたいという考えがありまして、よろしければ客席から自由にご発言いただければ幸いです。

小手川:そうですね、みなさんと映画について話してみたいというか……『籠城』がつくられたのは2022年3月で、完成から一年半くらい経っていて、だからというわけではないのですが、監督とはいえ作品の意味を解説できるわけではなく、上映の都度、観ていただいた方とお話しして、なるほどこういう作品だったのかと気づく、とこれまで上映するたびに思ってきました。

観客1:誰に見せたいと思ってつくりましたか?

小手川:特定の誰かに見せたいとは考えていなかったです。つくっている段階から、どういうふうに見られるだろうかと観客の存在はもちろん意識していましたが……また、誰がこの作品をつくっていて、どのような作品として文脈づけられるかもある程度は考えていましたが、特定の存在を想定していたわけではないですね。多田さんはそういうことを考えることはありますか?

多田:そうですね、できるだけ多くの人に。作品の射程ができるだけ遠く、長い方がいいかなとは常々思っています。たとえば「伊豆の踊子」をつくっていて、まったく文脈を共有していない人、日本に住んでいない人が作品を観てどう思うかはなるべく考えるようにしています。たとえば『籠城』がロシアでも上映されたと聞いて、ロシアの学生がどう見たのかなとわたしはたいへん気になります。

小手川:たしかに僕も、なるべく多くの人に、また、東大生以外に観てもらいたいという気持ちはありました。東大でつくった映画だったので、ともかく学外で、いろいろなところで上映していかないといけないと思っていました。

宮城嶋:実はわたし、小手川さんと「伊豆の踊子」の稽古を見学させていただいたんですけども、本当に見どころが満載すぎて、どういう人たちがどういうふうに見るんだろうというのはすごい気になる作品でした。

多田:とくに派手な場面でしたよね。

小手川:まだ断片的にしか見ていないのですが、とてもびっくりして、こんなシーンが「伊豆の踊子」にあったかなという衝撃的なおもしろさを感じるばかりでしたね。ちなみにロシアで上映したときは、中国との関係はどうなってるんだという問いかけが結構あって、共産主義や全体主義についてどう思うかという反応もありました。

■ 軍国主義、エリート、そしてアイデンティティ

観客2:いま軍の話が出ましたが、これを見ていて、1938年とかですよね、だから食堂で食事を取っている写真にハーケンクロイツの旗が下がってましたし、皇紀という表現を使ってましたよね。戦争が直前に見えている状況だと思うんです。それでいくつか質問があるんですが、ひとつ、映画を見ていてよく分からなかったのは、自治の意識と国家への奉仕がなぜつながるのか。自治というのは独立精神を養い、一種の規律をつくるということですよね。それがなぜ国家への奉仕になるのか。ある種の独立した共同体をつくるということと国家への奉仕が、どういう回路を通すとつながってしまうのか分からない。それはある種の生きづらさにつながるのかなとも思ったのですが、そのオブセッションが何なのか。映画では同じセリフがずっと繰り返されていて、そのオブセッションを象徴的に表しているような気もしたのですが、象徴的なレベルはさておき、実際に資料を読まれた感覚などからそのあたりをどう感じているのでしょうか。自治を行うことと国家への奉仕、しかも戦争が直前に見えているような状況で、ある意味で国家のために死ぬことさえ前提とする軍国主義がどうしてつながるのか。

小手川:事実的な前提ですが、高等教育を受けることだけでもエリートと呼ばれるような時代で、しかも一高の卒業生のほとんどは帝国大学に入学する。一高は帝大入学のための予備校みたいな存在だったんですね。そして、国家官僚の養成が帝大の意義の一つだったので、一高に入学することは ── その人数も非常に限られていたわけですが ── 国家に仕えることと直結していたんです。そのような時代ですから、国家を動かせるのは選ばれた人間のみだという意識のもと、一高生は自分たちのアイデンティティを考えなければならず、そのような社会的状況が自治の意識とも結びついていた。また、当時はいまよりも明確に階級意識があって、エリートは社会的な階級の一つであるわけで、だから自治というのは自分たちの社会的な立場を守り、維持し、つくっていくという考えとも関係があると思います。

観客2:当時の一高生の出身地というのはどうだったんですか。

小手川:出身はさまざまで、もちろん地方から入学する人も多かったです。彼らは必ずしも上流階級だけというわけではなく……すみません、厳密に分かっているわけではないのですが、基本的には中流以上の人間が多かったと思います。

観客3:この会に参加するときに、どちらかというと「ビバ!一高生」というような東大讃歌をする方が来て、そこに多田さんがクリエイティヴな視点を持ってきて、東大讃歌とどうぶつかるのか、第二部のディスカッションではバトルが繰り広げられるのではと思っていたんです。多田さんが最初に「東大の正義」のようなことを笑いながらおっしゃっていましたが、そこが熱く議論されるわけでもなく、監督もこういう方だったので、とりあえず安心しました(笑)。質問カードにも書いたのですが、東大には今でも尊敬とか憧れとかいう気持ちはあるんですかね。

小手川:一高に対して憧れがあるかということでしょうか。それはないと思いますね。東大に憧れて入学する人はいると思いますが、前身の一高に遡って憧れがあるかというと、少なくとも僕は聞いたことがありません。

質問者3:先ほどお話に出た、東大に何度も入学している方というのは……。

小手川:高原さんも一高が好きだから東大に入ったというわけではなかったはずです。官僚は意識していたと思いますが……東大に長くいる中で一高に興味を持ったという話を本人に聞いたことはありますね。

あと「ビバ!東大」ではなくて良かったということで、それは良かったと思います。ともすれば映画を観た後でも東大讃歌のように取られる可能性がある作品ではあると思っているので……もちろん一高を単純に賛美しているわけではなく、かといって自分たちを棚上げにして過去を批判するだけのつもりもないんです。多田さんの最初のコメントにあった「正しさ」というのは、国家や公共的なものにつながり、そして軍国主義につながってしまうような危うい概念でもあって、それは制作中にも議論の中心にあったことでした。でも「正しさ」というのはその都度人々が信じているようなある種の幻想で、もちろん幻想としての役割は重要なんですが、確たる輪郭がある絶対的で普遍的なものではないと僕は思っています。

ちょっと抽象的になってしまいましたが、一高に引きつけてみると、一高の「正しさ」の悲劇というのは……自治と国家への奉仕という問題とも関わるかと思うのですが……一高生と一口いってもそれぞれ個人的な性格があって、出身も違えば、時代によっても違うわけで、一枚岩ではないんです。もちろんそれぞれ自分の名前もあります。でも次第に「一高生」というものに個人が絡めとられていく。それはそのまま国家という存在ともつながってしまっていて、一高生たちのそれぞれが持っていたはずの価値基準が次第に社会的な価値基準と密着し硬直化していく、そのように周囲から見られ、期待されてもいる。社会的な規範や属性が個人のあり方と見分けがつかなくなっていく。そうしたものが彼らの悲劇だったのかもしれないと思います。

宮城嶋:わたしはこの映画で声の出演をしていて、制作にも携わっていたんですけども、はじめてテクストを小手川さんから渡されたとき、いま初めて言うから怒られるかもしれないんですけど「ふざけんな!」と思ったんですよね(笑)。「何だ、このエリートたちは」と思って。わたし自身は東大というものをある種少し離れた視点から見ることができるという仮定があったんですね。それで、初めてテクストを見たときに「ふざけるな、何だ、この自惚れた奴らは」と思ったところからのスタートでした。そこから音声を吹き込む段に入って、どういうふうに声を入れようかと考えたときに、段々と「ああ、東大生や一高生も悩んでいたんだ、それぞれ違う人たちなんだ」と思いました。わたしからするとエリートなんてふざけるなと思っていたんですけども、映画を通して、彼らにもそれぞれ心があって、悩みや葛藤があるというのが分かった。

そうした悩みをふまえて、たとえば「伊豆の踊子」とかを観ると……わたしはこの映画の制作中にSPACで「夜叉ヶ池」に関わっていて、この作品の主人公も東大生なんですけど、彼の気持ちはどうなのかという解像度が上がるなと思ったんですね。ふざけるなと思っていたところから、制作を通じて視点が変わったと思うところがあり、今回のイベントの企画・発案にあたって、そういう感覚に共感していただけたら嬉しいなと。まあでもこれはわたしがエリートくそやろうという気持ちがあったからで……すみません、今更こんなことを言ってしまって(笑)

小手川:いえいえ、制作中も言っていたと思いますよ(笑)

宮城嶋:そうでしたっけ(笑)。

■ ホモソーシャリティと空間の圧力

宮城嶋:書いていただいた質問カード、一枚ずつご紹介いただけたらと思うのですが。

小手川:そうですね、ちょっと読み上げたいと思います……「伝統、精神、言葉、力……これらは何かの本質を表す代名詞だと思うが、その本質が何なのか分からなかったので、もどかしく、何かおそろしく感じた(それが見えないことが狙いなのかも?)。正門を通れる者が少ないからといって「力がある」と勝手に思われても……と困惑した。また、つくづく、日本には「女性」は存在しないのだ、と思った」と。先ほどの宮城嶋さんのコメントとも通ずるところがあるかもと思うのですが……。

宮城嶋:映画を通して苛立ちを感じるという感想は、わたし自身もあったかもしれないです。

小手川:勝手に力があると思われても、という困惑はもっともだと思います。ところで、これは映画とは少し離れる話かもしれませんが、東大に入れば東大生として見られますよね。たとえばSPACで俳優をしていれば ── 宮城嶋さんも「SPAC俳優」だと自己紹介していましたが ── SPACの人間なのだと自分自身も規定するわけで、それぞれ場の磁場と個人のアイデンティティには深い関わりがあると思うんです。場というのは、ここまでが「東大生」、「SPAC」、あるいは「静岡県人」だというふうに、程度の差はあれ閉じている。区切りがある。それぞれの閉じられた場が持つ論理や構造が、そこに属する個人の性質と混同されるところに問題が生じやすいのではないでしょうか。つまり、彼らの力や権力について考えるとき、「一高」という場と個々の一高生とのあいだにねじれた関係があることを意識する必要があるわけです。

宮城嶋:もしかしたら「伊豆の踊子」の旅芸人にも同じことが言えるかもしれませんね。

多田:そうですね、旅芸人にもいろいろな人たちがいる。一高が狭き門だからといって力があるというのは、そう思うのも分かるし、彼ら一高生も「正しさ」の中で悩んでいたというのもあるんでしょう。この映画はドメスティックなものをドメスティックなものとして描いていて、他のドメスティックなものに当てはまることもできるし、自分にとっても似たような状況があるかもしれないと考えることができる。そこが「ビバ!東大」になりきらないところかなと思いましたね。

小手川:そう言っていただきありがとうございます。また「日本には女性は存在しないのだ、と思った」というコメントは深く受け止めなければならないなと。先ほど、どのような人たちに見てほしいと思っているかという質問がありましたが、そのことについて制作中に考えていたのは、『籠城』は間違いなく東大生がつくった東大の映画だと見られるだろうということでした。しかも僕は男性であり、原案の高原さんも男性で、制作チームには宮城嶋さんや久保田さん、撮影の一之瀬ちひろさんなど女性も多く、必ずしも男性に偏っていたわけではないのですが、やっぱりこれは男性がつくった男性の映画なんです。このことが『籠城』という作品の一つの限界であるだろうとも思います。制作中にわたしと高原さんが書いた脚本をもとに出演者やスタッフ交えて何度も話し合いをして、書き直しを重ねて、その限界を突破できればとも思っていたのですが、でもちょっと言い訳じみた感じになってしまいますね。

■ さまざまな一高生の姿

小手川:他にいただいたコメントを読み上げます。「「伊豆の踊子」の「私」の外見は着物に袴だったと思いますが、それは普段の服装ではなく旅の姿でしょうか」。

多田:旅の姿じゃないでしょうか。でも袴で学校に行っていた可能性もありますよね。なぜか「伊豆の踊子」の主人公は一高の学帽をかぶっているんですよ。本当にやめた方が良い(笑)。それが途中で鳥打帽にして大変身するという場面があって。だからもともと袴に学帽をかぶっていて、その格好で旅に出るということだったのではないか。一高が嫌で出ていったのになぜ……という感じですよね(笑)。混在していたのかもしれませんね。

そういえば「正しさ」について、作品内で「客観性」の話になりますよね。それで、おお、ちょっと開いてきたぞと思ったら、やっぱり最後に小声で「正しさ……」と言われていて、やっぱり逃れられなかったかと(笑)。逃れたいけど逃れられないものなんですよね。

小手川:その通りだと思います。ところで、ご質問で「ささやき声の多用の理由はなんでしょう?」というものがありました。理由というわけではないのですが、出演者の方たちにいろいろな仕方でセリフを声に出してもらったなかで発見したものでした。基本的に残されている資料は文書がほとんどですが、その言葉を実際に声に出して読んでみると全然印象が違ったり、微妙なニュアンスを伴って聴こえてきたりして、その声の探求の中で見つけたヴァリエーションの一つだったという感じです。とくに宮城嶋さんのささやき声は素晴らしかったですね。

宮城嶋:ありがとうございます。声の出演者の中でプロの俳優はわたしだけで、いわゆる普通に読んでいる声色ではない方法で読むことはできないかと議論していましたね。

小手川:他のご質問ですが「一高生は(当時の?)皆さんエリート意識を育てられていたということでしょうか。映像からは、まさに〈籠城〉の圧力を感じました。私はエリートではないですし(周辺には東大卒の方が多くいますが……)、文学研究、特に川端周辺の文学者たちの目線で一高を捉えているので、割とお気楽に考えていました。しかし時代は日中戦争からアジア・太平洋戦争に向かうわけで、そうした視点も興味深いです」。おっしゃるように映画で扱った時代は、世界的に非常に不穏な情勢だったわけですね。もちろん一高も時代によって異なっています。駒場に校地が移転した1935年にはすでに満州事変も起こっていて、どんどん全面戦争の気配も色濃くなっていく。他方で、本郷にキャンパスがあった時代でも、19世紀末に創設されたばかりの時期と、たとえば日露戦争があった時期とでは違います。創設当時の伝統の引き継ぎという観点から見ても時代ごとの違いは大切ですね。また、川端康成のほか芥川龍之介とか谷崎潤一郎とか文学者を多く輩出していて、そうした視点から見るとまた異なる一高像が見えてくるのだと思うので、興味深いです。

宮城嶋:そろそろ終わりの時間も近づいてまいりましたので、最後に多田さんと小手川さんから一言ずついただければと思います。

多田:先ほど宮城嶋さんも言っていましたけども、この映画を観ると「伊豆の踊子」の主人公についてかなり解像度が上がりますので、得したと思って、みなさんぜひ舞台も観に来てほしいなと。下田や修繕寺、浜松でツアーもありますので、「伊豆の踊子」の舞台となった現地の映像とともに、ぜひ観光がてら、観ていただけたら楽しいかなと思います。

小手川:やっぱりみなさんに観ていただいて初めて作品が生きてくるので、今日、上映する機会をいただけて、多田さんやお客さんにご応答くださって、本当に嬉しい限りです。本日はお越しくださりありがとうございました。SPAC版「伊豆の踊子」も楽しみにしております。

[ 登壇者プロフィール ]

小手川将(こてがわ・しょう)
1993年生まれ。映画作家・東京大学大学院博士課程。専門は映画論、表象文化論。現在の研究対象はロシア・ソヴィエト映画、とりわけアンドレイ・タルコフスキーについて。論文に「観察、リズム、映画の生──アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』の映画論における両義性」(『超域文化科学紀要』26号、2021年)。2023年、NPO法人三保松原・羽衣村「羽衣の夢」プロジェクトに参加。

多田淳之介(ただ・じゅんのすけ)
1976年生まれ。演出家。東京デスロック主宰。古典から現代戯曲、ダンス、パフォーマンス作品まで幅広く手がける。創作活動と並行して公共劇場の芸術監督や自治体のアートディレクター、フェスティバルディレクターを歴任。2013年日韓合作『가모메カルメギ』にて韓国の第50回東亜演劇賞演出賞を外国人演出家として初受賞。東京芸術祭共同ディレクター。四国学院大学、女子美術大学非常勤講師。SPACでは2018年に『歯車』(芥川龍之介作)を演出。

■ 宮城嶋遥加(みやぎしま・はるか)
SPAC-静岡県舞台芸術センター俳優
東京大学大学院総合文化研究科修士課程を宮城聰の演劇に関する論文で修了。SPAC-静岡県舞台芸術センターを中心に国内外の舞台に立つ。主演作品にSPAC『ロミオとジュリエット』、静岡県文化プログラム『かぐや姫、霊峰に帰る』、フランスを拠点とする馬術演劇カンパニー『Lunar Comet』など。学術と実践両方の立場から演劇を探究した経験を活かし、ワークショップ講師や演劇的な手法を活用した企画のプロデュースなど、様々な活動を展開している。

[ 関連情報 ]

SPAC 秋→春のシーズン 2023 – 2024
新作『伊豆の踊子』
開催日時:2023年10月7日(土)、29日(日)、11月11日(土)、12日(日)、18日(土)、19日(日)
各日14:00
会場:静岡芸術劇場
SPAC公式ページ

[ 主催 ] cocommons

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