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コラム / 『刺青』観劇記

たきいとやまだの会 その1『刺青』
観劇日 2023年6月9日(金) 18:00

柚木康裕(cocommons)
2023年6月13日(火)

 6月9日(金)、心配していた雨は昼前には上がり、午後からは夏空が顔を出していた。天気に気を揉んでいたのは、18時から演劇を観る予定だったからだ。演目は谷崎潤一郎の短編小説「刺青」。この物語は朗読ではなくひとり芝居として演じられる。俳優はSPAC所属たきいみき。演出はユニークポイント主宰であり、藤枝市白子ノ劇場代表の山田裕幸。この経験豊富な二人がタッグを組み、谷崎を上演する。二人を知る者は、たまらず食指が動いてしまうはずだ。しかも上演場所は静岡市の文化財に登録されている鈴木邸である。昭和初期に建造されたこの木造平家家屋は、広い敷地に立派な庭も備えている。たびたびイベントで使われるので馴染みの方も少なくないと思うが、良き昭和を偲ばせる空間だ。この物語を上演するのに、静岡市でこれ以上ふさわしいところがあるだろうか。ただ市内から少し距離があり、交通の便は良いとも言えない。ゆえにいつも車を30分ほど飛ばすのだが、それゆえに雨が降ると難儀だ。その雨も止んで、心もすっかり晴れた。

 たきい、山田、谷崎、鈴木。ミニマルにして、これ以上ない組み合わせ。下世話に言えば、コスパは最高である。当日パンフレットに山田はこんなことを書いていた。「売れたバンドが地方の小さなライブハウスでシークレットライブをするような感じ」と。勘違いしては困るが、これは本人たちが売れたバンドといっているのではなく(もちろんそれでも何ら問題はない)、経験を積んで酸いも甘いも知った今、気心の知れた仲間たちと好きに楽しみたいということを示している。つまり、これは大人の「遊び」なのだ。それもとても贅沢な。ただ、もちろん、ゆえに、ひとときの戯れに真摯に向き合う。これが本当の大人の態度というものだろう。このような「遊び」をさらりとつくることに感激し、同時に憧れを抱いた。

 ただ、もう一人この遊びのクオリティを高めていた方を紹介しなければいけない。それは作曲と演奏を担当した島崎敦史だ。筆者は初めて彼の演奏を聴いたので存じていなかったのだが、楽曲と演奏が極めて理知的に制御されている印象を持った。けっしてでしゃばらない。それは演目に合致していることは当然だが、この和室という空間の特性も考慮にいれられているはずである。昭和初期の西洋への憧れが曲調にさりげなく表れながら、現代のアンビエント的な雰囲気もある。モダンからコンテンポラリーという振れ幅がこの舞台の昭和感をうまくアップデートしていたように感じた。

 山田はパンフにこんなことも書いていた。解釈や意図はとりあえず考えずに、気軽に楽しんでほしいという。そして、実際に私もすべてを脇に置き、聞こえるセリフと音を存分に楽しんだ。もちろんそれだけでなく、視覚、触覚、嗅覚など自身の感覚をフル稼働させながらおおよそ45分を満喫した。だから、決して楽しいだけでは終われなくなってしまった。それは楽しいを超えてもっと深い満足感となっている。そして、その満足感を何がもたらしているかを考えずにはいられなかった。おおよそ、その原因はシアター=演劇/劇場という問題系なのだと思い当たっている。ひとつには上演自体だけではなく、プレシアターとアフターシアターの連続性において成功していたゆえに満足感が高いのではないだろうかということだ。もちろんこれは主観である。上演前後の体験は極めて属人的であるので一般化することは難しいかもしれないが、それでも主催者側は上演前後を整えることには努められる。

 例えば、鈴木邸を選ぶことからシアターは始まっているともいえる。スタッフの衣装が昭和モダンのイメージで統一していたのに気づいたと思う。山田の娘さんもスタッフとして来場者のアテンドを担当していたが、白のフリル付きブラウスと黒のシックなワンピースで出迎えてくれた。中学生の彼女からしたら、ちょっと背伸びした服装だろう。劇場「鈴木邸」にふさわしく、このような演出は楽しいものだ。もちろん、すべてをコントロールするのは不可能だが、偶然が効果を上げる時も多々ある。たとえばこの日のように雨上がりの小道を通り母屋に到着するまでに森の潤いを感じたり、終演後に鈴木邸を後にする時に見上げた夕方を迎える薄い青色の空がうっすらと朱に染まり、まるでフランドルの絵画のような印象を与えていたこともシアターの一部として記憶に残るのだと思う。

 そして、もちろんシアターの中心には上演がある。プレとアフターが再現性に重きを置くとしたら、上演は一回性の独壇場だろう。もちろん再現性を前提とするが、一度として同じ舞台にはなり得ないことは既知の事実だ。観客はその一回性に息を潜め、そして幸運に恵まれれば息を呑む(今回がまさにそれだ)。通常の劇場ではその一回性は気付きにくいようにできている。そしてそれがテクニカルの矜持だろう。照明や音響は毎回寸分違わずに遂行されるはずである。だが鈴木邸のような場ではそれは叶わない。照明は天気に左右されるし、時に外から人の声が聞こえてくる。それらは塞ぎようがない。だからそれらは受け入れなければならない。経験者はそこから始めることを知っているだろうし、ゆえにそれらの条件がネガティブに働くことは極めて少ないはずである。今回もまさにその通りで、環境を味方につけて、大胆に遊んでいたのではないだろうか。それは演者奏者演出家の総合力を豊かに物語っている。

 上演は見応えたっぷりで、最初から最後まで逐一伝えたいところだが、ここではひとつのことに絞って物語を追ってみたい。それはたきいの汗である。まずは谷崎潤一郎「刺青」を簡単に説明したい。初出は1910年(明治43年)。時代ははっきり示されていないが江戸の世であろう。腕利きの若い刺青師清吉が主人公である。彼は自らが認めた美女の肌に己の魂を掘り込みたいという宿願があり、ここ三年四年抑え難くなっていた。そんなある日に道端で真っ白な素足を持った女と出会い、追いかけるが見失ってしまう。その翌年春も盛りを過ぎたころのある日の朝に、偶然にも清吉のところに現れる。少女は清吉の馴染みの芸妓が寄こした使いの娘だったのだ。清吉は用が済み帰ろうとする彼女を引き止めて巻物を見せる。その後麻酔で眠らせて彼女の背中に女郎蜘蛛を彫った。夜が白み始めたころにそれは完成した。湯に入り痛みに耐えた彼女は身じまいを整えて清吉の前に立つ。少女から女へと脱皮した彼女は剣のような瞳を持ってこう云った。「親方、私はもう今迄のような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。ーーーお前さんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」。清吉が最後にもう一度刺青を見せてほしいと嘆願すると女は黙って肌を脱いだ。その刺青に朝日が差し、背は燦爛としていた。

 たきいはこれまでSPAC-静岡舞台芸術センターの多くの演目で主要人物を演じてきた。『ふたりの女』の六条とアオイ、『寿歌』のキョウコ、『夜叉ヶ池』の白雪姫などなど。最近では『人形の家』のノーラが記憶に新しい。そのたきいがこの少女を演じるのだから、たきいファンは、「万障お繰り合わせのうえご出席ください」と言われる前に、チケット申し込みボタンを押したはずである(私もそのひとりだが、、)。それは早々に売れ切れになり追加公演が決まったことからもあながち間違いではないはずだ。たきいは上記に示したように複雑な感情を持った女性を数多く演じ、彼女の演技力とその整った容姿によって深い印象を残してきた。だが、彼女はけっしていわゆる美女キャラではない。これは推測だが、彼女の性格はその容姿から受け取る印象とは違って、さばさばとしていてあっけらかんな性格のように感じる。それが演技にも表れて、時に少女の面影を映し出すのではないだろうか。ゆえにこの少女をどう演じるのかという興味は尽きない。ただ敢えて、ひとつ気になることを言えば、その技術と容姿によって整った妖艶さで終わってしまわないだろうかということだった。もちろんそれは全く杞憂に終わる。

 中盤に差し掛かるころ、照明の光が彼女の顔にうっすらと滲んだ汗を照らしていることに気づいた。序盤は涼しげに登場し、ナレーションと清吉を演じ分ける技に感嘆していたが、いつもの綺麗な女優がそこにいた。物語が佳境に差し掛かるころ、つまり清吉と少女が再会するころから、彼女の額の汗は少し目立つようになってきた。通常の劇場のような強いスポットライトは使用しておらず、天井に申し訳なくぶら下がる小さな光源があるだけなので、それほど暑いのだろうかと少し不思議に思った。会場自体も観客の視線の熱は感じるが蒸せるようなことはない。だが、しかし緊張の汗なのかもとも考えた。通常の舞台は客席から離れているので、汗に気づくことはないが、俳優は思った以上に汗をかいているのかもしれない。いわんやこの距離である。しかも初演だ。手を伸ばせば届きそうな距離で演じてるのだ。百戦錬磨の俳優も緊張して然るべしだろう。ただ、その汗をも演じてしまっている彼女に驚愕する。たぶんこれは演出ではないはずだ。不測の出来事をも演じてしまうたきいの俳優としての業を感じずにはいられない。そして、上演が持つ一回性の醍醐味がここに表れていると言わざるを得ない。

 終盤になればなるほど、彼女の顔にじっとりと汗が張り付き、艶を増す。それは、清吉を演じる時は狂気的な恍惚のしたたりであり、少女となれば覗かれたくない泉から湧き出る水となる。こうして弱いあかりに照らされた三者が交錯する。そして、ついに顎から一滴落ちる。その汗は畳に落ちるのだ。そのリアリティに身震いする。ついに鈴木邸は真の劇場となった。鈴木忠志的な意味において。闇の再生としての合掌造りを持ち出すのは突飛かもしれないが、ここにあるのも闇の片鱗だろう。こうして演劇/劇場というシアターがうごめき立ち上がっていく。幼虫が蝶に変態するごとく少女が女となる。それと同様にこの空間がシアターに変わる/化ける。俳優はその触媒となる。彼女の汗のしたたりは畳に染み広がり私たち全体を包み込む。その一体化に私は深く満足したのだと思う。

 とても贅沢な大人の遊びに参加させて頂いた気分だ。上演だけでなく、公演前後にも十分に配慮されたプロダクションに敬意を表したい。この物語は現代の常識に照らし合わせれば不道徳ということになるだろう。ゆえに中学生以上の観劇を想定しているという一言がフライヤーに記されている。こうした細やかさにこのチームがこの演目をどう捉えているかが表れている。政治的な正しさの前で倫理や道徳は現代の社会ではとても複雑な問いになっている。現代の演劇はこれらの問題に特有の役割を持つべきだろうが、そのような意識も感じられる公演だった。

 少し長くなってしまった。では、最後に改めて。粋な大人たちに最大のリスペクトを。本当に良い演劇経験をさせて頂いた。多謝。

[ 参考 ]
青空文庫 刺青 谷崎潤一郎
ウィキペディア 刺青(小説)
別冊新評 鈴木忠志の世界<全特集> 新評社 昭和57年

敬称は省略させて頂きました。
写真はすべて筆者撮影。
写真は順に以下となる。鈴木邸の奥座敷(会場となった部屋)を庭から望む。玄関に続く小道。奥座敷の廊下。夜の帷が降りる鈴木邸。

今回の演出を務めた山田裕幸さんの次回作を紹介します。
ユニークポイント『ひとようたかた』 HP


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